友人のKさんが、めでたくブログを開始したことを祝い、同じテーマで友人3人+著名人+私の5人でエッセイを掲載することにしてみた。が、Kさん、Mさんは訳あってブログ更新に間に合いそうにないとのことなので、今回は友人のAiさんと共にこのテーマ「女性と知性」についてのエッセイをお届けしたいと思います。え、著名人って誰って?あはっ、すみません。実はmsnのMy Sparkling Life で石田さんが次回同テーマでエッセイを掲載するとのことなので、それにかこつけて、大胆にも同じテーマで自身の考えをブログに掲載してみようというのが今回の趣旨です。
で、女性と知性。
このテーマを耳にした時、まっさきに思いついたのがマリリン モンローの存在だ。いわゆるセックスシンボルだった彼女は自身のイメージと自分自身とのギャップに悩んだと言われている。映画の主演をはれる女優がほとんどいない当時のハリウッドで、観客を呼べる主演女優だった彼女。作られたセクシーでキュートなキャラクターと、真面目で努力家の自身との溝に苦しんだと何かで読んだことがある。ブロンド美女=知性のない可愛い女 という偏見が作り上げられたのもこの頃だろう。でも実際のマリリンは、とても繊細な女性だったようだが、その生き方はどうであれ、世界に名を残す活躍と今なお語られる存在感は、彼女の努力と才能(スター性)によりものではないかと思う。
次に思ったのが、何故「女性+知性」なのかということ。
確かにこのトピックは度々取り上げられることがあるが、何故「男性+知性」ではないのか、ということである。女性誌のエッセイでも、知的な女性について語られ、大人の女性=知性のある女性 という方程式が暗黙の式として成り立っている。だが、大人の男性=知性のある男性 という方程式に関して語られることはよくあることだろうか?いや、ないと思う。少なくとも私は読んだことがない。そりゃあ、好みのタイプと聞くと、「頭のいい人」と答える女性は多くいる。だが、男性の知性について語られることはあまりないように感じられる。そこが、すでに女性と男性に関する「知性」のポジションの違いのように思う。
つまり、「知性」とは、女性にとってはいまだに議論のテーマであって、テーマになるということは、テーマにすべき存在ということで、その場合、大体希少価値の高いもの、新しいもの、脅威の存在である場合が多い。女性にとって、「知性」とは、未だに議論すべき存在なのだ。でも、素直に認めたい。議論したいテーマであり、「男性+知性」よりよっぽど面白く深みのあるテーマだと感じるのだ。
で、女性と知性。
女性の知性を感じる時はどういう時だろうか?
私はこう感じる。「瞳がキラッと輝いた時」であると。
好きな本でもいい、好きな音楽、アーティストに関してでもいい。好きな料理でも、好きな香りでも、好きな男性について語る時でもいい。もちろん、仕事の改善方法でも、新しいプロジェクトに関してでもいい。自身が考える、興味の対象に関して独自のアイデアを語る時、女性の瞳はキラッと光るのである。文字通り、キラッと。
その瞬間、アイデアを考えついた時の喜びと、それを表現する時の興奮に輝き、瞳の奥からその人自身の魅力が発せられるのだ。だから、その時私は感じる、その女性(ヒト)の知性を。
私が思う知性とは、教養ではない、知識でもない、教育をどれだけ受けたのでもない。人は男性、女性に関係なく、誰でも知性を持っている。知性は比べるものではない。その人から生まれるその人の考えだ。だから、何かについて話していた時、自身のアイデアを思いつき、自身を持って語る時の女性の瞳の輝きに共感を覚える、尊敬を覚える、知性を感じるのである。
女性は欲張りな生き物だ。それは、このブログを通して何度も言ってきたことだが、特に最近感じるのだ。自身の生き方へのアイデンティティが確立された女子が多いことを。一度だけの人生ならば、どうせなら楽しい方がいいじゃない?嫌なことも、苦しいことも含めて、色々体験したいじゃない?という生きる事への積極的な姿勢である。あのParis Hilton を見てほしい。突き抜けたセルフプロデュースと自分への自信。人からどう思われようが、彼女は彼女だ。自身をとりまく訳が分からなくなる環境下で常にParis というブランドを維持することができるところに、マリリンと同じ知性を感じるのは、私だけだろうか?
だから思うのだ。
「女性の知性」とは、「生きる力」であり「人生を楽しむ意志」であると。
皆さんは「女性と知性」というテーマで何を語りますか?